夫が出会い系で浮気してた

子あり四十路女。若い女の子に目がない夫と冷めた生活を継続中。

我が精神の停滞

もう若くないという現実にじわじわと打ちのめされてる。消えない毒みたいに。なおらない病のように。生きている限りずっとこれがひどくなっていくのは明白で、そう思うと暗澹とした気持ちになる。

若い時分には、「若くていいねぇ」と言ってくる年配者の気持ちがわからなかった。でも今はわかる。もう二度と手に入らない、だけど確かに昔は自分にあったもの、それがとても眩しくて仕方がない。だからつい口にしてしまうのだろう。若いというのはそれだけで素晴らしいことだなんて。

だけど、よくよく考えてみる。いまの私が眩しくてしょうがないのは肉体的な「若さ」だけなのだ。たとえば記憶そのままに時間を巻き戻すことができたとして、若い頃に戻ったら、とにかくお金がないことに絶望してしまうだろう。お金がなくてつらかったあの頃。いまみたいにネットもなかったあの頃に楽しく生きる術は、いまの私にもわからない。

それでは見た目を若くすればいいかというと、それもちがう。いくら若く見えても、四十年生きてきたという事実は変えられない。なにもかもがちぐはぐだ。

 

こんなことをつらつら考える羽目になったのは、夜眠れなくてツイキャスというのを見てみたからである。ツイキャスはおそろしい。ほとんどが十代前半。二十そこそこで「大人っぽい」などと評される世界。そんななかに四十の私が紛れ込むなんて無理すぎるのだ。その子らの親でもおかしくない年齢で、一緒に楽しむなんてもってのほか。完全に若者の文化だと感じた。

では同世代の人とつるめばいいのかっていうと、それも私の精神が未熟ゆえ無理であった。行き場がない。やはり三十くらいで去っておけばよかった。三十でも、生きすぎたと感じていたくらいだった。人生とは。

バァバ・イズ・ノット・ババァ

風邪が治ったらリバウンドするに違いないと予想していたのが当たりつつある…嫌だーーー。それでも、月単位で見れば先月の今頃よりは2キロ減ってるからいいよね?体脂肪も右肩下がりだから、セーフよね?そう思いたい。そう思わなきゃやってらんない。じわじわ増えていって嬉しい数字なんて子供の体重と貯金くらいだよ。私はもう体重も年齢も十分だよ…。

 

最近とても悪い癖がついた。それは「流し読み」。きっかけは少し前に借りた本。すっごく、つまらないの。なんで借りたのか思い出せないんだけど、ものすごくつまらなくて、でも話の展開だけは見届けようと思って普段しないような流し読みをした。会話のところだけささーっと読んで。その他は大事そうなところだけを拾い読み。もはや「読書」とは言えないレベル。一語一句を噛み締めながら読むのが「読書」だと思っていた私にとっては禁断の果実を口にしてしまったようなもの。それ以降の読書が明らかに変わった。少しでも退屈だなと思ったらつい流し読みしてしまう。流し読みすらせずに中断してしまうことも増えた。なんだか、よくない兆候。日に日に偏屈ババアへの階段をあがっている気がする。

どうでもいいけど、祖母を「ばぁば」と表記してあるのをみると「ばばぁ」と読んでしまって己の汚れた心を実感する。

リバウンドとブルゾンちえみ

ここ一週間、体調不良につき運動できず食事も糖質が高いスポーツドリンク(スポーツしてないのに)や菓子パンなどを補給するありさまで、ダイエットは完全に休止。そんな状況で体重計にのるのは恐怖ながらも、毎日計っている。するとどうだろう。リバウンド待ったなしかと思われた体重は、意外なことに減り続けている。てっきり、これまでつけてきた筋肉が分解されて脂肪になってしまったのだろうかと思いきや、体脂肪率も下がりつつある。しかし体感的にはプヨプヨしてきている実感があるので、体調が戻ってダイエット(運動)を再開する頃には体重が増えるのではないかと予想する。

どこかのブログで、ブルゾンちえみがあれだけ過酷なマラソン(有酸素運動)を1日かけてしたにもかかわらず体重は全く減らなかったことに関しての記事を目にした。それによると、人間のからだには「戻ろう」とする性質があるので、いきなりイレギュラーな激しい運動をしたところで身体はなるべく栄養を取り込んで脂肪をもとに戻そうとするらしい。それを読んですごく納得したおぼえがある。無理なダイエットというのは、やはり「無理」なのだ。無理したぶんだけ身体は元に戻ろうとする。それどころか、もっと脂肪をたくわえて危機に備えようとする。だから運動は習慣化しないと意味がないのだなぁと決意を新たにしたところでこの体調不良。はよなおってくれ。

継続できない

続けることが苦手。仕事も。趣味も。人間関係も。

人と良好な関係を築けないから場当たり的な付き合いしかできないし、その場所からはなれたら途端に連絡も取らなくなる。

齢四十を過ぎてあらためて人生を振り返ってみると、実りの少なさにがく然とする。出会いという宝物を無造作に扱ってきた罰なのだと思う。結局、あのときしに損なってしまったけどそこから生きてきた意味って皆無に等しい。今、なにもかも手放すことができたらと妄想する。そうしたらひとりでもっと深い闇に沈んでいくのに。

生きづらさは年々ひどくなる。すべてが他の星の出来事のように遠く感じる。動かしかたがわからない機械にのって日々のあらゆることをやらなくてはいけない恐怖。違和感だらけなのに他所の感情だけはダイレクトに流れ込んでくる。私にはそれに対処する術がわからない。

飯がまずいって

笑った。斉藤由貴つきぬけてんなー。子供がかわいそうとか思っててもわざわざ書いたり言ったりするのは野暮よね。まったくなんの問題もなく波風の立たない家庭なんてないし。ただ、純粋に斉藤由貴が面白い。あれだけトップアイドルだったわけだし、女優としての自負もあるだろうし、歌もなんかポワーっとして人気あったよね。「卒業」なんて、まさに斉藤由貴!ってイメージの歌詞だった。

今のご時世だといかにネットでの立ち回りが上手いか、が人気に直接影響するようになっちゃって「好い人」風な芸能人が多いから斉藤由貴とか工藤静香ぐらいパンチがきいてるのが面白い。なんでもかんでもネットで発信する世代とは明らかに一線を画してる、メデイアによってワンクッションおいたイメージが作られていた世代。そのワンクッションが必ずしも良い方向には働かなかった不遇の世代でもあったのかな。変にバッシングされて急に表舞台から消えた芸能人にとってはね。

SNSといえば大森靖子の「音楽は魔法(ではない、けど)」問題については、うーん。あの意思の表しかたは彼女の作風そのままでもある気がするので、ありといえばありなのだろうな。ただあまり直接的にブログやTwitterなどで目にしたい問題ではなかった。

CD-BOX 1

CD-BOX 1

 

 

懐メロを聴く気分じゃないけど懐メロしか思い浮かばないとき

自分の場合。いい曲だなーって惚れ込んで好きを熟成させるまでに時間がかかる。

好きになったのが昔であればあるほど親密度が高いために「なにかいい曲を聴いて癒されたい…」となると選択肢に出てくるのがたいてい懐メロ。困るのは懐メロを聴く気分じゃないのに懐メロしか思い浮かばないとき。そういうときにはカバー曲がいい。曲自体は古いけど、アレンジや歌唱が変わるとたいていはいい感じになる。ただ全くいい感じにならないものも少なくない。これならオリジナルだけを聴くほうがいいな…と強く思うものも。カバーアルバムとかトリビュートものはそういう意味では博打。諸手をあげてカバーものが大好き!とはとても言えない。ものすごく気に入るものもあれば、聴いてしまったこと自体を悔やむものもある。

 

懐メロのカバーといえば、やくしまるえつこがJITTERIN'JINNをカバーしてくれないかなとずっと思ってる。言葉遊び重視の乙女的かつレトロな歌詞、繰り返しの多いメロディ、かなりはまると思う。「にちようび」とか「プリティダーリン」あたりは特にやくしまるえつこ声で脳内再生余裕。

にちようび

にちようび

 

ジッタリンジンスマホで打ったらちゃんとJITTERIN'JINNと出て驚いた。

なんで見知らぬババアどもに二人目いなくて可哀相などと言われないといけないのか

天気がよいので散歩してたらあずまやで同席した高齢女性たちに言われた。

「ぼく、何歳? あら、5歳なのー。かわいいわねー。兄弟は? いないの? まぁ、かわいそうにね。でもこれからいくらでもできるわよ。お母さんまだ若いし」

困ったことにババアどもに悪気はない。心から親身になって感想を述べた結果が上記。

こういう人らにいくら私の状況や気持ちを伝えたところで無駄骨におわるにちがいない。価値観が違いすぎる。

顔真っ赤にしてでもその価値観を見知らぬ初老に押し付けないでくれと言うべきだったのかもしれない。だから今こうしてこういうことを書いたところで、上記のような価値観を疑うことなく持ち続けている人達には伝わらないだろう。

今、私は40歳。私たちが50、60、70歳になったころに下の世代に自分の価値観だけで幸福を推し測るような真似だけはやめたいと強く思う。