夫が出会い系で浮気してた

子あり四十路女。若い女の子に目がない夫と冷めた生活を継続中。

芸能人が声をあてること

ドラゴンクエストライバルズをプレイしてみた。手持ちのカードからランダムにひいてリーダーを守りながら対戦するゲームアプリ。ひととおりチュートリアルは終えたものの、フリーマッチの対人で負けまくり、トレーニングに戻るも対AIで負けまくり、私どれだけ馬鹿なのだろかと思うほどむいてない。

リーダーはあらかじめ用意された職業から自由に選ぶことができる。魔法使いゼシカとか、僧侶ククールとか、道具使いトルネコとか。ドラクエシリーズでおなじみのキャラクター達。私は昔のドラクエをやっていないのでよく知らない。なので、リーダーもなんとなく選んでプレイ。なんとなく見た目がかわいいから、アリーナ姫(武道家)で進めようとした。

しかし、大きな壁にぶち当たる。

リーダーって、しゃべるんだよね。声つきなの。アリーナ姫(中川翔子)の声がいただけない。

厳密にいえば、声そのものは悪くないよ?なんだろう、滑舌?表現力?いちいち違和感があるんだよ。プロの声優のなかに素人が混ざってます感が拭えない。

芸能人が声あてるのは別に反対しないよ。ただ、声優の訓練なり、舞台経験なり、ある程度のラインはクリアしてからあててほしい。唐沢寿明(ウッディー)とか、大泉洋レイトン教授)なんかは、すごく良いし。そういえばホマキも上手かった。

一度気になりだすと、アリーナ姫がしゃべるたびにイラッとするようになってしまって。姫をつかうのはやめた。ゲーム自体は難しいけど、頭の体操だと思ってもうちょっとやってみる。

シン・ゴジラが呼び起こすもの

シン・ゴジラの地上波はスルーした。映画館で見て腹が立ったもので。

平たく言うなら3.11を追体験させられたのが不快だった。あの絶望。なすすべもない無力感。不安。不信。あの日突然訪れたどうしようもない大災害の記憶は自分のなかではまだ『未処理』に分類されている。それを取り出して加工するのがこわい。

映画では勇敢な人間たちがゴジラという大災害と向きあい、協力しあって知恵を絞り、最終的には『そういう行動ができる人間の素晴らしさ』みたいなのが残る。凍結されたまがまがしいゴジラは今にも動き出しそうで不気味だけど、いつ起きてもおかしくない点では大地震原発も同じ。

もし、3.11を経験してなかったらフィクションとして楽しめたかもしれない。順序が逆だけど、これシン・ゴジラで見たやつだ!となったのかも。

3.11のとき。

水は止まったけど、電気は使うことができた。だからネットで水が配られる場所の情報を探した。ガソリンがどこで入れられるか、再開しはじめたスーパーや銭湯はどこか。ローカルな情報を手に入れるためにSNSがとても役に立った。

その頃はまだミクシィも使ってたけど、よく見てたのはTwitter。だけど自分のTwitterはリアルとはほとんど紐付けてなかったから、フォローに地元の人は少なく、タイムラインは地震なんて起きていないような日常のツイートばかりだった。それを見て隔たりを感じたのを強くおぼえている。地震云々というより、これが人生かなと思った。わたしがしぬときも、とても近しい人を除いてそこにはただ日常があるだけ。

シン・ゴジラに話を戻すと、3.11と大きく異なる点は東京が真っ先に狙われたところ。それによって日本の首都機能はボロボロになり、大企業の本社ビルも軒並み破壊され、電車は玩具のようにゴジラに突っこみバラバラになった。

それを『楽しく見れる』というのは幸せなことだと思う。これがもしゴジラ宮城県沖から現れて大津波からの福島第一原発と融合して大爆発、だったらまったく楽しめそうにない。

 

今週のお題「芸術の秋」

シン・ゴジラ

 

監獄姫の誘惑

クドカンのドラマ(監獄姫)を見ていると、彼女らの自由さにどうしようもなく惹かれてしまう。

むかつく夫も子供も幼稚園の行事も親戚とも関係なく過ごせるって、すげーいいじゃん!!と思ってしまう。実際には、きっとものすごく寒かったり臭かったりするんだろう。そう思わないとうっかり監獄コースに足を踏み入れてしまいそうだ。生理用品とかも満足に使えるのか不安だし。

最近は別に食欲もないし、希望もないし、ただただ人生をやり過ごしてる。

キジマカナエの監獄ブログも一時期見てたなー。字が、おそろしいほど整ってるのよね。あんな風にていねいに、ユーモアを交えながらかしずかれたらコロッといかない男性のほうがきっとすくないと思う。

11キロ減で肩が出現

長らく肉に埋もれていた肩が出現した。鏡を見て、あ、肩だ、と思った。

ダイエット開始してから11キロ減。体重は月に2キロ、体脂肪率は月に1パーセントのペースでじわじわと減量している。とはいえ、ゴールはまだ先。美容体重にはあとマイナス9キロ、適正体重にはあとマイナス4キロ。できれば美容体重を目指したいけど、適正体重になったあたりで運動をもっと増やさないと届かないかも。

適正体重になったらMサイズの服が着られるのだろうか。今現在ぴったりなのがLサイズなことを思うと、2ヶ月後、順調に4キロ減ったところでMサイズはまだきつそう。というと、やはり目指すところは美容体重か。

肩以外に減量を実感するところ。頭皮。髪を洗うときに毎日さわって気づく。明らかに脂肪が減っている。頭皮のしたの頭蓋骨までが前よりも近い。あとは下半身。LLサイズのズボン(パンツと言えないクラスタ)をはくとゆるゆる。おしりもブカブカでシワっぽくなってかなりカッコ悪いことになっている。しかし買い換えるのはMサイズと決めているからまだ我慢する。

40歳がツイキャスの若者をみて思うこと

ツイキャスをここ一週間くらい見てみて、十代半ばから二十歳そこそこの利用者が圧倒的に多いことはわかった。そもそもネットでは顔は隠すもの、としてきた私からするとネイティブスマホ世代は異次元すぎた。

あと気づいたのが、ツイキャスって配信者と視聴者の垣根がほとんどない。スマホさえあればどっちも簡単にできるから、配信者が視聴者でもあり、視聴者が配信者でもあることがとても多い。それがなにを意味するかというと「ROMでだんまり」もしくは「ツイキャスTwitterで自己アピールをしない人」はほぼ透明な存在として扱われる、ということ。ニコ生のコメントはデフォルトで名無しなことを考えると、TwiCasはそれよりSNS化した動画配信サイトなんだと思う。

そんなツイキャスを最近みていたのだけど、中年にはきつかった。ことあるごとに世代間のギャップと自分の年齢を再認識させられる。さらにこんなこと言うとさらにババア感が増すけれど、漢字読めなさすぎ。とある配信で、すごく美人で見とれてたらコメント欄の「訴訟」が読めなくて、誰かが読み方を教えても「そしょう、ってなに?」と言っていたのに衝撃を受けた。そりゃ、言葉をたくさん知ってる若者だっているだろうけど、そういうひとはあまりツイキャスでは配信していないのか配信タグに「漢字弱者」なんてものまであったりして、本どころかブログ文化も先細りなことをしみじみと感じた。

moi! ツイキャス主の本 3 (エンターブレインムック)

本とか出てるんだ……。私もあと20年ほど若ければ配信してみたかったわ。

シミだらけの顔のでかいおばさん

シミはね、わかる。色素沈着。まー仕方がない。顔じゅうに増殖したシミ。コンシーラーでひとつひとつ隠すのもだんだんしんどくなってきた。メラノCCはまだ効かない。

わからないのは顔のでかさよ。

明らかに伸びてる。体重が増えたぶんは、まあわかる。でもそれだと全体的に丸くなるよね。ここ5ヶ月のダイエットで10キロ減らしたから、肉っぽさは減りつつあるのよ。でも、縦に伸びてる感はなおらない。なんなのこれ。重力に負けてるの?

ほんと、容赦なく、どんどん醜さが増していく。外見がだめなら内面をみがけばいいとか思うと宗教にすがりたくなりそうで危険。

the ultimate collection

この腐敗した世界、というよりも自分と周りだけが朽ちていく。

我が精神の停滞

もう若くないという現実にじわじわと打ちのめされてる。消えない毒みたいに。なおらない病のように。生きている限りずっとこれがひどくなっていくのは明白で、そう思うと暗澹とした気持ちになる。

若い時分には、「若くていいねぇ」と言ってくる年配者の気持ちがわからなかった。でも今はわかる。もう二度と手に入らない、だけど確かに昔は自分にあったもの、それがとても眩しくて仕方がない。だからつい口にしてしまうのだろう。若いというのはそれだけで素晴らしいことだなんて。

だけど、よくよく考えてみる。いまの私が眩しくてしょうがないのは肉体的な「若さ」だけなのだ。たとえば記憶そのままに時間を巻き戻すことができたとして、若い頃に戻ったら、とにかくお金がないことに絶望してしまうだろう。お金がなくてつらかったあの頃。いまみたいにネットもなかったあの頃に楽しく生きる術は、いまの私にもわからない。

それでは見た目を若くすればいいかというと、それもちがう。いくら若く見えても、四十年生きてきたという事実は変えられない。なにもかもがちぐはぐだ。

 

こんなことをつらつら考える羽目になったのは、夜眠れなくてツイキャスというのを見てみたからである。ツイキャスはおそろしい。ほとんどが十代前半。二十そこそこで「大人っぽい」などと評される世界。そんななかに四十の私が紛れ込むなんて無理すぎるのだ。その子らの親でもおかしくない年齢で、一緒に楽しむなんてもってのほか。完全に若者の文化だと感じた。

では同世代の人とつるめばいいのかっていうと、それも私の精神が未熟ゆえ無理であった。行き場がない。やはり三十くらいで去っておけばよかった。三十でも、生きすぎたと感じていたくらいだった。人生とは。