日記が好きな理由
見知らぬ人のブログ日記を読むのが好きだ。
普段他人とほとんど接することがないわたしにとって、誰かの生きた日記を読むということはとても人間的な行動に値する。
自分との共通点があったり、なかったりする。見知らぬ他人だから、違っていれば当たり前、逆にすこしでも似た考えに触れるとうれしくなる。
映画や小説を楽しむように、彼や彼女が、どこかで違う人生を送っている自分のようにも感じる。
人間という大きなくくりの生命体としての意識、みたいな。
宇宙から地球を見たときに感じる光みたいなもの。
生命の営みのなかに、微かな粒子となってわたしも彼も彼女もあの子もあいつもみんないる。
ブログという形式をとっているから、ある程度「外に向かって綴られた文章」なところも好き。
Twitterだとライブ感が強く、見たからには反応しなくては、と読むことに徹するのが後ろめたくなる。勝手に盗み見しているような気持ちになるときも。
とはいえブログも、ひとりごと気分で好き勝手書いてたらいきなりコメントをもらって面食らうこともある。
公開している以上、誰に見られてもいいくらいの感覚を常に持ち合わせることは一般人には難しいのかもしれない。
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忘れがちだけど、人っていつか死んでしまう。命には限りがある。ネタバレでも何でもなく、最初からそう定められている。
わかっているはずなのに、訃報をきくたびに衝撃を受ける。まさかあの人が。最後に会ったのはあのときだったっけ。どんなことを話したんだっけ。
そうして思い浮かべる故人の顔は大体いつも笑みを浮かべている。その人が向けてくれた優しさがいつまでも残っている証だ。
字のきれいさってさ
字が汚ない。
私ではなく子どもの。
字がめちゃくちゃなのである。
注意しても直らない。指先が元々器用なほうではないし視覚で形の違いを認識するのも苦手。
何度も注意するたびに思うのが「字がきたない」って一体何なのさ?ということ。
大きさや位置が文字ごとにばらばらとか、一画の長さや角度がちがうとか、細かく言えばそういうことなんだけども。
ガラスが曇るみたいに汚ないわけじゃないし。
「文字をきれいに」って、決められたスペースのなかでバランス良く、かつ文字のお手本そっくりに、それこそ画面の文字フォントみたいに書くのが最良ということ。
その概念を説明するのが難しい。
そしたら文字が達筆すぎてつらつら~っと書いてあるようなあれは、きれいな文字と言えるのだろうか。
では見本そっくりに書きなさいと指導したところで、模写力がないとどうにもならない。
いっそひらがなや漢字のない国に移住して生きたほうが楽かもしれない。アルファベットを文字として使う国の人たちってわりと文字の整いかたに無頓着じゃないですか?偏見かもしれないけど。それくらいでいいよ。
さらにやる気をなくす原因は、子どもにこんなに血眼になって字を丁寧に!!!!と口角泡を飛ばしたところで、社会人以上になったらほとんど文字を手書きする機会そのものが圧倒的に少なくなる。あでもそれこそ学校の先生とかは別か。業種によりますね。
まー漢字の読み方も書かないとなかなか身に付かないわけで。仕方ないことなんだけどね。私はもう疲れました。
見届けられなかったドラマの人たち
新しく始まったドラマを見た。大豆田とわことコントが始まる。二つのタイトルをつなげてしまうと別のドラマみたい。
どちらも最初は面白く見ていた。涙ぐんだり感動したりしてた。しかしもうどちらも見ていない。前クールの綾瀬はるかと高橋一生が階段から転げ落ちた拍子に人格が入れ替わるドラマも3話目くらいまでしか見ていない。時間がないわけじゃない。最後まで見る気力がない。そのことを大して残念に思ってない。途中まで見たドラマの人物たちは、私の意識のどこかで永久に着地せずに漂っている。いつまでも悩んだり争ったりしている。それでいいやと思う。ドラマを途中まで見て放棄することは、ただ意識のなかの人物を増やしているだけに過ぎないのかもしれない。ドラマというのは、見れば見るほど人物に関する情報が増えて疲れていく。もしかしたら、私はテレビドラマの見方を根本的に間違えているのかもしれない。ドラマの物語を楽しむのではなく人物についていちいち考えてしまう。話の流れで一貫性のない人物描写が出てくるといちいち引っ掛かってしまう。人間なんてそもそも曖昧なもので常に変容しているのに。
九ヶ月の孤独
女子大生が羽田空港のトイレで出産し、乳児を殺害したのちに都内の公園に埋めたというニュースを知り、以前の自分とは異なる感想を抱いている。
以前というのは、とある出来事を境にしたもので、もしそれ以前の自分であれば
「いくらなんでも周りの人が妊娠に気がつくでしょ」
と思っていた。
しかし、その出来事を境に、こういった事例はそんなに珍しくないのかもしれず、今もどこかに孤独な妊婦は存在しているのだろう、と認識をあらためた。
その出来事というのは、数年前のこと。
うちの子供が毎週通っていたある習い事。そこは実力に応じてコースがわかれていて、コースごとに指導者がついていた。
親が送迎して、子供が習っているあいだはガラス越しに見守る方式。おわったあとは指導者によるフィードバックも都度行われる。
ある日、それまで子供を指導してくれていた担当が変わっていた。指導者が変わるときには何かしらお知らせがあるものだがこのときはなかったのでたまたま休みなのかと思った。
その日のフィードバック。
代わりとなって指導してくれた先生に「今日は担当の◯◯先生はお休みだったんですか?」と軽い気持ちで聞いたら
「実は◯◯、先日出産しまして…」
と返ってきて、驚きのあまり椅子ごとひっくり返りそうになった。
なぜなら、この習い事というのはスイミングスクール。
◯◯先生はつい先週までスイミングウェアを着用してプールに入り子供らを指導していた。
臨月なんてものじゃない、まさに出産直前まで身重とは思えない業務をしていたとは…
あまりに面食らったので、何回か聞き直したと思う。耳を疑うってああいうことなんだね。
職員さんに聞いたところによると、
「周りが『それ妊娠してるんじゃないの~?』と言っても頑なに否定していた」
らしい。
とりあえず母子ともに健康状態は良好で、スイミングのうちの子供の担当は急遽変更になったらしい。
それから、◯◯先生の姿を見かけることはなくなった。
辞めたのか転勤になったのかは、聞いてないのでわからない。
◯◯先生は未婚、年齢はいくつか知らないけれど30いってないくらい、だったと思う。
自分は毎週、出産までの◯◯先生を妊娠とは知らず見学していたわけだ。
全体的に少しふっくらしていたけど、単にお太りになられただけかと思ってた。
時々すごく顔色が悪くて、笑顔も全くないくらいのときがあったけど、ただ疲れているのかなと思ってた。人知れず妊娠しているなんて、全くもって、思いもよらなかった。
毎日水着姿でいても、密かに妊娠を継続でき、周りは気づかない、実際に私も全く気づけなかった、という衝撃。
仮に妊娠を指摘されたとしても本人が否定し続ければ、周りはどうすることもできない。
この世はこんなにつらいから
酒を飲まないとやってられない。
アル中への道をひた走っている。
ほぼ毎晩飲む。
酎ハイ350mlを1缶。
しかし最近はアルコール度数が高いよねー。
ふつうに「7%」とか書いてあるから、ふつうに飲んじゃうよね、7%。
これだけアル中になりやすい環境ってのも日本ならではなのかい。
外国に行ったことも住んだことも行く予定もないからわかんない。
このままここで何十年か生きて、死ぬんだと思う。
わたしの生きてきた意味って、なんだったんだろうね、なんて考えたらおしまい。
だって意味なんてないでしょう。
ただ生まれてきて、死ぬ。それだけのことだよ。
現世を少しでも味わえたらいいんじゃないのかな。
愛とか幸せとか、味わえたのかな。少しでも。
思い出すと苦しくなるけど、確かにあの頃は輝いていたな。
こんなに好きになる人はもう現れないと思った。相思相愛だったのは一瞬のことでも、幸せだった。だけど相手がしたことも自分がしたことも許せなくなって、訣別した。あれを乗り越えるべきだったんじゃないだろうか私は。そうしたらもうちょっと愛について向き合える人生だったのかな。だけど相手にそれを強要するのもおかしな話。
常に酔っぱらって生きていけたらラクなのにな。
頭がふわふわして、余計なことは考えなくて、先のこともわからない。ただ音楽を聴いていい気分になるだけ。
わたしは秘密がないと苦しくなる。
今も家族に秘密を持っている。
それは酒を飲むことにほかならない。夫や子供がいないあいだに酒を飲む。うわ、立派なアル中じゃん。
そして大音量で「ゴーストバスターズ」を流して踊り狂うのだ。変な教団の変な儀式みたいに。そんな姿だれにも見せられないし、その秘密がわたしという人間を保っている。
秘密がない人ってすごいな。きっと大きな人なんだろう。
わたしはどうでもいいことを「秘密」という部屋に鍵かけて閉じ込めることで、なにか一癖あるような人間になったつもりでいるだけだもの。
なんにもないゆえに、くだらない秘密をつくって大事にしてるの。
だけど自分で死ぬのはばかばかしいと思う。だっていらん迷惑をかけるでしょう。周りの人があとで余計に苦しむんじゃないかな。あのときああしてあげればもしかしたら、とか、絶対にその人のせいなんかではないのに一生背負っていっちゃうよね。
一時期はわたしも自殺にとりつかれたけどね、なんかもういくとこまでいっちゃえばいいじゃんって気分になってる。だって死ねなかったし。首吊り失敗してERの人たちのお手を煩わせて、ぴんぴん生きてアル中になりかけてるって、これでまた自殺はかって失敗しちゃったら本当にちょっと、、、、ねぇ、、、って感じ。だったら最初に●んどけよ!って周りの誰もが思うよね。それに今は子供もいるので、彼の一生のウツの種になるわけにはいかないので、それは生きていたもそうなるかもしれないけども、生きているかぎり笑いあえる瞬間もあるわけで、しんじゃったら取返しもやり直しもできないので、みっともないまま生きる。
魔法少女のスカート
今期始まったアニメをぼちぼちと見ている。異世界とか魔法とかが多い。
なぜ魔法少女は短いスカートで空を飛びまくるのか?
うら若き女性の太ももがあらわになるのは素晴らしいこと、という前提があるのか?
これも。
これも。
みんなスカートをひらひらさせながら空を飛ぶ。中にスパッツなど履いていないけど、下着が見えることはほとんどない。アニメだからね。
そうか、逆にアニメだから安心して見ていられる点はある。不意にスカートがめくれて下着やお腹が見えるようなことにならないから、そこに注目しないで動きだけを見ていられるということか。
しかし気になってしまう。自分が若かりし頃、制服のスカートで自転車に乗るのがすごく嫌だった。ばさばさして、意識して手で押さえること自体恥ずかしいうえに、そんな恥じらいを他人に感じ取られるのも我慢ならなかった。
しかし制服は着ないといけないし、徒歩で行くには駅や学校までアホほど遠く、自転車に乗らざるを得ない。スカートの丈が長ければ問題ないというわけではなかった。丈の長いスカートで自転車に乗るとより空気をはらみやすく、バサバサと邪魔で仕方がない。
最近は女子の制服もズボンが選択できるそうで良いですね。
魔法少女のスカートはこの先も短いままなのかな。
一転して「魔法少女」でなく「魔女」になると、身体のほとんどを覆い隠すような、ひきずるほど長い暗い色をしたローブを着ている印象がある。
布地が少なく肌を露出させるのは若さの象徴ということかね。
そう考えると、ずっとミニスカートを履き続けている森高千里の凄みをあらためて感じるのだった。