数年ぶり何度目かの発覚

はーい、またです

毎度。再度。

 

ここ最近夫の様子がおかしいなーとは思っていたんですよねー

案の定、やってました。

セフレ募集の裏垢女子とDMしてました。きっっっっっも

 

もうね、病気なんだと思う。

なんらかの病名がつくやつかもしれないし、つかないかもしれない。

でも普通じゃないでしょ。女子大生くらいの年齢の子ばかり狙って。きっっっつ

 

だいたい、なんかやってそうだなーと思ってこっちは圧力かけてんですよ

その時点で必死に隠せと。

完全に見えない、気づかないところでやってくれるぶんには一向にかまわない。

家で傍若無人に振舞おうと、配偶者に罵詈雑言を日常的に浴びせようとも、隠してくれたらそれでいい。

でもね、たぶんアホなんでしょうね。そして病気。

 

配偶者には「今日も太ってる」とか「顔が丸い」とか言ってる裏では、DMで他の人に馬鹿みたいに優し気な言葉をつづっていましたよ。

お疲れさまとか、大丈夫?とか。

 

そんなことわたし、ひとことでも言ってもらったことあったかなぁ。

わたしだけが家のことやるのも当たり前みたいにして、食事も当然のように用意させておいてさ、どの口が言ってんの?その気持ち悪いくらいに口当たりのいい言葉。

 

できれば見たくなかった。確実にやってるというその画面を、見たくなかった。

でもいくら圧かけてもカタカタカタカタやめないから、見てやった。

 

そしたら「なんでわざわざ見るの?」だって。

嫌な気持ちになるものを、なんで人は見るのでしょうね。

わたしにもわからない。そんなこと。

 

ただ、わたしはこれ以上自分を踏みにじる行為が許せなかった。

 

あーあ。

こんな状態で、おなじ家に住んでるの本当にばかみたい。

さっさと別れればいいのに。

知り合いがそんな状態だったらわたしもそう思ってる。

 

なんだかここが行き止まりみたいな、袋小路みたいな気持ち。

どこに行っても逃げられない。

あいつは口先だけで「すみません」と言って、きっとまたやる。

二度あることは三度あったし、四度目も五度目もあるに決まってる。

大金を賭けてもいい。全つっぱしてやる。

 

わたしが出て行こうとしたら、「自分が出ていくからやめろ」と引き止めるふりをして、5分くらいの買い物からすぐにもどってきて、ほとぼりが冷めるのを待ってる。

ほとぼりが冷めたとしても、わたしはあいつを一生許さない。

はてなブログのありがたみを知る夜

四十路になったのを機に始めたこのブログですが、五十路までもうすぐになってしまいました。時の経つのは早いものです。

 

最近は特に良いことも悪いこともなく、停止した心電図みたいに平坦な日々です。

 

今日は何となく眠れなくて。

このブログを思い出し、恐る恐る振り返ってみたら…なかなか面白かった!

昔の私、こんなこと考えてたのかぁ、今とあまり変わらないけど、と古い知り合いと久しぶりに会話したような気持ち。

 

ブログを書く意味って何なのか、SNSでいいんじゃないか、そう思うこともあったけど。

ブログは、振り返ったときに見やすい。

紙に書くと十年後くらいには八割がた紛失してるのでNG。

スマホのメモとかも意識して保管し続けないといけないし、クラウドに保存してもいつかなくなっちゃうかもだし。

その点、はてなブログさんは安心。

無料で使わせてもらってるのにこんなにがっつり保存されてるって何。

何もかもが値上がりし続ける世の中で、無課金ユーザーにもやさしいはてな

 

いやはや、ありがとうございます。

 

これからもよろしくお願いします。

 

 

 

日記が好きな理由

見知らぬ人のブログ日記を読むのが好きだ。

普段他人とほとんど接することがないわたしにとって、誰かの生きた日記を読むということはとても人間的な行動に値する。

 

自分との共通点があったり、なかったりする。見知らぬ他人だから、違っていれば当たり前、逆にすこしでも似た考えに触れるとうれしくなる。

 

映画や小説を楽しむように、彼や彼女が、どこかで違う人生を送っている自分のようにも感じる。

 

人間という大きなくくりの生命体としての意識、みたいな。

宇宙から地球を見たときに感じる光みたいなもの。

生命の営みのなかに、微かな粒子となってわたしも彼も彼女もあの子もあいつもみんないる。

 

ブログという形式をとっているから、ある程度「外に向かって綴られた文章」なところも好き。

Twitterだとライブ感が強く、見たからには反応しなくては、と読むことに徹するのが後ろめたくなる。勝手に盗み見しているような気持ちになるときも。

とはいえブログも、ひとりごと気分で好き勝手書いてたらいきなりコメントをもらって面食らうこともある。

公開している以上、誰に見られてもいいくらいの感覚を常に持ち合わせることは一般人には難しいのかもしれない。

忘れがちだけど、人っていつか死んでしまう。命には限りがある。ネタバレでも何でもなく、最初からそう定められている。

わかっているはずなのに、訃報をきくたびに衝撃を受ける。まさかあの人が。最後に会ったのはあのときだったっけ。どんなことを話したんだっけ。

そうして思い浮かべる故人の顔は大体いつも笑みを浮かべている。その人が向けてくれた優しさがいつまでも残っている証だ。

 

 

字のきれいさってさ

字が汚ない。

私ではなく子どもの。

字がめちゃくちゃなのである。

注意しても直らない。指先が元々器用なほうではないし視覚で形の違いを認識するのも苦手。

 

何度も注意するたびに思うのが「字がきたない」って一体何なのさ?ということ。

 

大きさや位置が文字ごとにばらばらとか、一画の長さや角度がちがうとか、細かく言えばそういうことなんだけども。

ガラスが曇るみたいに汚ないわけじゃないし。

「文字をきれいに」って、決められたスペースのなかでバランス良く、かつ文字のお手本そっくりに、それこそ画面の文字フォントみたいに書くのが最良ということ。

その概念を説明するのが難しい。

そしたら文字が達筆すぎてつらつら~っと書いてあるようなあれは、きれいな文字と言えるのだろうか。

 

では見本そっくりに書きなさいと指導したところで、模写力がないとどうにもならない。

いっそひらがなや漢字のない国に移住して生きたほうが楽かもしれない。アルファベットを文字として使う国の人たちってわりと文字の整いかたに無頓着じゃないですか?偏見かもしれないけど。それくらいでいいよ。

 

さらにやる気をなくす原因は、子どもにこんなに血眼になって字を丁寧に!!!!と口角泡を飛ばしたところで、社会人以上になったらほとんど文字を手書きする機会そのものが圧倒的に少なくなる。あでもそれこそ学校の先生とかは別か。業種によりますね。

まー漢字の読み方も書かないとなかなか身に付かないわけで。仕方ないことなんだけどね。私はもう疲れました。

見届けられなかったドラマの人たち

新しく始まったドラマを見た。大豆田とわことコントが始まる。二つのタイトルをつなげてしまうと別のドラマみたい。

どちらも最初は面白く見ていた。涙ぐんだり感動したりしてた。しかしもうどちらも見ていない。前クールの綾瀬はるか高橋一生が階段から転げ落ちた拍子に人格が入れ替わるドラマも3話目くらいまでしか見ていない。時間がないわけじゃない。最後まで見る気力がない。そのことを大して残念に思ってない。途中まで見たドラマの人物たちは、私の意識のどこかで永久に着地せずに漂っている。いつまでも悩んだり争ったりしている。それでいいやと思う。ドラマを途中まで見て放棄することは、ただ意識のなかの人物を増やしているだけに過ぎないのかもしれない。ドラマというのは、見れば見るほど人物に関する情報が増えて疲れていく。もしかしたら、私はテレビドラマの見方を根本的に間違えているのかもしれない。ドラマの物語を楽しむのではなく人物についていちいち考えてしまう。話の流れで一貫性のない人物描写が出てくるといちいち引っ掛かってしまう。人間なんてそもそも曖昧なもので常に変容しているのに。

九ヶ月の孤独

女子大生が羽田空港のトイレで出産し、乳児を殺害したのちに都内の公園に埋めたというニュースを知り、以前の自分とは異なる感想を抱いている。

以前というのは、とある出来事を境にしたもので、もしそれ以前の自分であれば

 

「いくらなんでも周りの人が妊娠に気がつくでしょ」

 

と思っていた。

 

しかし、その出来事を境に、こういった事例はそんなに珍しくないのかもしれず、今もどこかに孤独な妊婦は存在しているのだろう、と認識をあらためた。

 

その出来事というのは、数年前のこと。

 

うちの子供が毎週通っていたある習い事。そこは実力に応じてコースがわかれていて、コースごとに指導者がついていた。

 

親が送迎して、子供が習っているあいだはガラス越しに見守る方式。おわったあとは指導者によるフィードバックも都度行われる。

 

ある日、それまで子供を指導してくれていた担当が変わっていた。指導者が変わるときには何かしらお知らせがあるものだがこのときはなかったのでたまたま休みなのかと思った。

 

その日のフィードバック。

代わりとなって指導してくれた先生に「今日は担当の◯◯先生はお休みだったんですか?」と軽い気持ちで聞いたら

 

「実は◯◯、先日出産しまして…」

 

と返ってきて、驚きのあまり椅子ごとひっくり返りそうになった。

 

なぜなら、この習い事というのはスイミングスクール。

◯◯先生はつい先週までスイミングウェアを着用してプールに入り子供らを指導していた。

 

臨月なんてものじゃない、まさに出産直前まで身重とは思えない業務をしていたとは…

 

あまりに面食らったので、何回か聞き直したと思う。耳を疑うってああいうことなんだね。

 

職員さんに聞いたところによると、

 

「周りが『それ妊娠してるんじゃないの~?』と言っても頑なに否定していた」

 

らしい。

 

とりあえず母子ともに健康状態は良好で、スイミングのうちの子供の担当は急遽変更になったらしい。

 

それから、◯◯先生の姿を見かけることはなくなった。

辞めたのか転勤になったのかは、聞いてないのでわからない。

 

◯◯先生は未婚、年齢はいくつか知らないけれど30いってないくらい、だったと思う。

 

自分は毎週、出産までの◯◯先生を妊娠とは知らず見学していたわけだ。

全体的に少しふっくらしていたけど、単にお太りになられただけかと思ってた。

時々すごく顔色が悪くて、笑顔も全くないくらいのときがあったけど、ただ疲れているのかなと思ってた。人知れず妊娠しているなんて、全くもって、思いもよらなかった。

 

毎日水着姿でいても、密かに妊娠を継続でき、周りは気づかない、実際に私も全く気づけなかった、という衝撃。

 

仮に妊娠を指摘されたとしても本人が否定し続ければ、周りはどうすることもできない。