はてなブックマークを始めて驚いたこと
はてなブックマークというものがありますね。
四十路を機にブログを書いてみようと思ってはてなブログを選んだのは、この「はてブ」こと「はてなブックマーク」と連携しているからです。
他のブログサービスも連携しているんだろうけど、「はてな」って付いてるくらいだからやっぱり「はてなブックマーク」には「はてなブログ」なのかなって。
はてなブックマークというものが集まると、このはてブのリンクページに掲載されるんですよね。わたしはスマホからはてなブックマークアプリを使って、人気エントリーや新着エントリーを読むのが日課になっています。
そしてつい先ほど、やっとブックマークというものを使い始めたのです。
珍しく、夫に干渉されずにパソコンを使う時間が取れたので。
それで使いはじめてみたら、すごく驚いた。
なぜって前に書いた記事にブックマークがついていたんですよ!
初ブクマいただいていた記事。
は~、びっくらこいた。
だってお知らせもなにも来てなかったし、まったく気づいていなかったんですよ?
ブックマークでコメントまでいただいてたのに、まったく気づいていなかったんですよ。ね、ほんと。すみません。はてなの通知ちゃんもほら、一緒に謝って。ね。
そういうわけで、ありがとうございます。誰かに反応いただけるってのはこんなにうれしいことだなんて、久しぶりに味わいましたよ。mixi以来かしら。
あたくし、調子に乗って自分で自分の記事もブックマークしちゃいましたわ。
血眼になって調べてみたところ、どうやら1個までなら自分で付けてもいいっていうじゃない? いや、公式がそのようにアナウンスしているわけではないけどね。グレーゾーンてやつか? たぶんね。大きな声では言えないけれど。
あとはあれよね。はてブといえば、互助会なるものもよく取沙汰されてるじゃない。
互助会というか、相互ブックマークしあっているブログのことをそう言うのかしら、このあたりにランキングがのってるの。
ブコメで、それこそmixiのコメント欄みたいなやりとりする仲良しさんたちのことよね。要するに。
はてブのエントリ一覧を見ていたらおなじみのブログばかり。私も、記事の内容といい、ブコメの内容といい、よく毎回同じようなことばかり書いてるなぁと思ったこともありますよ。そりゃね。だけど、ブログをいざ初めてみてわかった。
コメント欄でやれってよく言われてるけどさ、コメント欄は敷居が高いんだよね。
コメント欄だと、返信ありきみたいなとこあるじゃないですか。
相手に負担になるかなー、でも一言なにか残したいなーってときにブックマークコメントなのかなって思ったんですよね。
自分でブログを書いたり、ほかの人のブログを読むようになって。
そうそう、ほかの人のブログと言えば、ブックマークのエントリ一覧より、はてな公式の新着エントリ一覧のほうがずっとずっと面白いと最近思うわけよ。
一覧をながめていると、はてなブログというサービスがいかに多くの人に使われているかっていうのがわかる。更新を押すたびにどんどん新しいエントリが出てくるの。
なかにはただのビジネスというか、ただ検索ワードをスペースで区切っているだけのタイトルもわんさかあるけどね。
だけどそのなかに、目を引くタイトルと、ブログの名前があると大体は自分好みのブログだったりするのよ。
パソコンから見れば記事の冒頭が少しだけ見れるけどね、スマホからみるとタイトルとブログ名しか見えないのよ。だからすごく研ぎ澄まされるわけ。
それで記事を読んでみて、どんどん読者登録しちゃったわよ。ふふふ。
ただ、ブックマークを今後どう使っていくかは悩んでいる点でもあり。
自分の記事にブックマークとかコメントをもらうとね、思わず相手はどんな人だろう? と見に行って、ブログを書いていればそれも読んで、読者登録ボタンやTwitterのフォローボタンがあればそれも押しちゃったり、記事の内容に感銘をうければブックマークをつけちゃったりしたくなる。
でもそれを速攻でしてしまうと、ただの「お返し」だと思われるのもなんかあれだなーと。
人によってはそれに義務や面倒くささを感じたり、嫌気がさしたりするのかなーと。
まー、自分がやりたいようにやっていくしか道筋はないよね。
誰かに嫌われるかもとか、怒られるかもなんて思いながらインターネットをするのもなんかね。遊びなのに。人並みのモラルとマナーは最低限守っていればいいかなってね。
パソコンで文字を打つのが楽しくなってつい長くなってしまいました。
化粧がマナーって、一体誰に教わるものだろう?
成人女性が化粧することは一般常識。私がそのことを知ったのは成人してからずいぶん年数を重ねたあとだった。誰も教えてくれなかったから。すっぴんの私に面と向かって「化粧はマナーだ」と言う人がいなかったから。たまに「もしかして、すっぴん?」と聞いてくる同性の先輩や知人がいたが、その質問の本意が「化粧は常識なのに、信じられない」だとは気づいていなかった。
普通こういったことは母親や近しい人物から教わるものなのだと思う。私の母といえば、出掛けるときには念入りに化粧をしていた。しかしそれが女として当然の身だしなみと教えることはなかった。私には女の姉妹もいなかったから、化粧をおぼえることなく家を出て遠方の大学へ入り、すっぴんのまま社会へと飛び出していった。
二十歳をこえても、基礎化粧品やベースメイクというものがいまいち分からなかった。夜のアルバイトに身を投じたとき、下地も塗らずにドラッグストアーでなんとなく購入したファンデーションを肌にのせて、口紅をつけた。アイラインはどこに引くのかわからなかったから、なんとなくアイシャドウを目の回りにつけてみたり、自己流で眉毛をハサミで切ったりした。
女としての身だしなみの方法がわからない私は、常に周りの女たちとの距離を感じていた。日中に派遣社員として働いたとき、昼休みにトイレの洗面台が混雑するのが恐ろしかった。みんな必死に鏡を見て化粧直しをしているので、歯みがきだけをする自分は肩身が狭かった。
ある時、同じ派遣社員である人から声をかけられた。気が合ってときどき一緒にランチを食べに行ったり、話したりしていた女性だった。
「今日、ファンデーション持ってくるの忘れてしまって。悪いんだけど貸してもらえない?」
そう頼まれて私は内心とても焦った。
普段ろくな化粧をしていないことに罪悪感をおぼえた。
「ごめん、ファンデーション持ってないんだ」
正直にそう言った。嘘ではなかった。その頃の私はリキッドのファンデーションを出掛ける前に家で塗って、持ち歩いてはいなかった。
「そうなの。わかった」
その人はあっさりと納得したようだった。だけどもしかしたら、ファンデーションを貸したくないばかりに私が嘘をついたと疑われても仕方がないと思った。
結局、私が「化粧は常識」ということに気づきはじめたのは、ごく最近。中年になってからである。きっかけは、ネットを見ていたときだった。肌が弱くて化粧ができない女性の悲痛な記事を読んだことだった。
これほどまでに、社会人としての常識として女性の化粧があったとは。私はとても驚いたと同時に、これまでほぼすっぴんでいたことを恥じた。そして化粧についての基礎知識をネットで調べ、人並みの化粧品をそろえた。化粧品メーカーのカウンターには未だに行く勇気はないけれど。
はてなブロガーにありがちなTwitterの流儀
開設以来アホみたいに記事を書いてるのですがほとんど誰も来ないことに戦慄し、Twitterはじめました。
ツイッターユーザーネームに「はてなブログ」とついている人を片っ端からフォローしたのです。
おかげでタイムラインは、ほぼはてなブロガーで埋まっています。
それを眺めていて気付いた、はてなブロガーならではのツイート傾向。
新しく記事を投稿した報告 ←わかる
過去記事紹介ツイート ←まぁわかる
自分がつけたブックマークの共有 ←まぁ、うん
記事についたブクマコメントのリツイート ←わからん
問題は最後のやつです。
この記事にはこんなコメントがついたで! みんな見てや! という気持ちなのでしょうか。そのコメントが思わず記事を見に行きたくなるようなものならまだしも、書き手へのファンメッセージのようなさらっとした内容でも漏れなくリツイートしてらっしゃる。
ブクマの共有は、まぁ、その人の興味を知れて面白いかな、うん、という感じだから気にならないけど。
自分の記事についたコメントをリツイートで流すのは、あれに似てる。
好きな作家のアカウントをフォローしたら、その作家に送られてきた作品の感想をリツイートしまくってて、タイムラインが絶望的なまでにそれ一色になってしまった残念な気持ち。ああいうのってファンなら喜んで読むべきなのだろうか。
とりあえずはてなブロガーをTwitterでフォローするときは、フォローと同時にRT非表示にしないといけないと学びました。
でも他のはてなブロガーは、どうしてるんだろう。リツイートの表示って。
太っていてもいい、わけがない
ここだけの話、この十年間で20キロ近く太った。運動をしない、食べてばかりいる、因果関係はこの上ないほど明確だ。
不覚にも写真に写り混むと、自分のあまりの大きさに驚く。顔の大きさが周りの人の二倍くらいある。腕も胴体も何もかもがぱんぱん。二重どころか三重あごになっている。自覚している「自分の顔」がそこにはない。
すこし運動をしてみようか、という気持ちになってやり始めると、調子が良くなってきた頃に重い風邪を引いてどうでもよくなる。
夫は毎日なにかしらディスってくる。体型のこと、健康のこと、老化のこと、目につくものすべて。
わたしは醜い。
夫の言葉を素直に受け入れて反省し、巨体をどうにかするというきれいな心も全くもちあわせていない。心身ともに醜い。
泊まり込みのダイエット合宿というものがあれば半年くらいこもりたい、と妄想する。
意志薄弱でなまけ者の私には優しくも厳しく管理してくれる人が必要だ。食事と運動、そしてメンタルも管理してくれるような施設はないものだろうか。医師も常駐、同志で集まれるサロンも併設。
そんな妄想をしながら横たわる。
LLサイズの服を探すことに疲れた。太った醜い身体で生活する窮屈さ。テレビをつければ番組によって食いしん坊キャラを演じさせられている女子アナが男性司会者にデブハラを受けている。女子アナは頬をふくらませ、共演者はげらげら笑う。
太っていることはそれだけで負けているようなものだ。自分に。世の中に。すべてに。
藤野涼子の目ぢからすごい@5/1(月)ひよっこ感想
今日のひよっこ。
向島電機に就職するもうひとり、豊子と合流。愛子さんが毎度のボケを発動してずいぶん待たされたことに不満顔を隠さない豊子は、高卒のみね子たちに敵意をむき出しにする。なぜなら豊子は成績優秀にもかかわらず経済的な理由で高校進学できず、中学卒業と同時に集団就職せざるを得なかったから。
乙女寮での挨拶でも、豊子は「ここでも成績トップを目指します」とブレない。
豊子を演じているのは藤野涼子。映画「ソロモンの偽証」での演技をすごく注目されてた人だよね。わたしはそれを見ていないけど話題だけは知ってた。
確かに、藤野涼子すごい。豊子役はかなり強烈な印象。気が強くて食えないキャラかと思いきや、マヨネーズにドン引きするシーンでは表情が目まぐるしく変わり、可愛いげがある。こういう気の強さはなにかの拍子にポキッと折れてしまいそうでもあり、目が離せない。
「ガラスの仮面」で北島マヤが脇役を演じても目を引いてしまい主役を食うどころか劇そのものをぶち壊す、なんて話があった。
藤野涼子を見ているとあまりの目の引きようにそんなことを感じる。顔が地味なことから黒木華っぽくもあるが、恐ろしいほどの演技力を秘めていると思われる。
ところでみね子の父ちゃんはまったく出てこないね。生死すらわからないレベルだよね、リアルでここまで情報がなかったら。
私が煙草を一切吸わなくなった理由
私が煙草を初めて吸ったのは22歳くらいのときで、きっかけは夜のアルバイトを始めたら周りの女の子がほとんど煙草を吸っていたからだった。そのバイトで接客スキルの低さを痛感し、昼の仕事に切り替えてからも喫煙の習慣はゆるく続いていた。二十本入りの煙草一箱を四日くらいかけて消費していた。
三十歳手前になって煙草を買うのをやめた。借金がかさんで返済がままならなくなり、任意整理をした頃だった。生活とお金の使い方をあらためると同時に、煙草もやめた。煙草のにおいに敏感になったこと以外はとくに禁断症状らしきものは出なかった。
それからはしばらく煙草と無縁の生活をおくった。結婚相手は非喫煙者で、子供も生まれた。妊娠や出産より、赤子の世話がとにかく想像を絶するものだった。何しろ自由がない。母親は赤子の手足となり脳となりすべてを捧げなくてはならない。
身動きできないほどの不自由さのなかで、私はふと「煙草が吸いたい」と思った。健康に悪い煙を敢えて体内に取り込むことが、自由の象徴のように感じた。
しかし赤子と一緒にいながら煙草を吸うわけにはいかない。自由のために投げ出すのは私ひとりの身体だけで十分だ。とはいえ、つねに赤子と一緒にいる以上、喫煙どころか煙草とライターを買いに行くチャンスもなかなか無かった。
ひそかな渇望を抱え続けたある日、大きなチャンスがめぐってきた。
夫が赤子を連れて父子で出掛けることになったのだ。少なくとも一時間半ほどは帰ってこない。
私はよろこび勇んで、自転車をこいでコンビニへと駆け込んだ。看板には「たばこ」の三文字。店外にはベンチと灰皿が設置してあることが下見でわかっていた。
手頃なライターと、軽そうな煙草を購入した。こんなにうれしそうに煙草を買う人間はまれだろう。そのくらい、頬がゆるんでいるのが自分でもわかった。
そして店の外に出て、実に何年ぶりかの一連の動作をした。毒とわかる空気が喉から肺にしみわたっていった。久しぶりに自由を感じた。灰が少し膝に落ちた。指がすこし震えていた。一本吸い終えて、もう一本に火をつけた。二本目を吸っているときには身体じゅうが懐かしいだるさに支配されていた。
まだたくさん残っている煙草とライターの処分に悩んだが、まとめてコンビニの袋に入れて口をぎゅうぎゅうに縛り、バッグの奥底にしまいこんだ。夫にも子供にも見つかるわけにはいかない。けれど、捨てるにはあまりに惜しかった。私にとってこれは自由への鍵にほかならない。
そしてまた自転車で家路についた。なるべく強い風を受けて喫煙の痕跡を消そうと全速力でペダルをこぎ、無人の家に着くと顔と手を洗って服を着替えた。
しばらくして夫と息子が帰宅した。においは夫に感じられないようだった。子供もいつもとかわらない表情。私は安堵するとともに強い罪悪感におそわれた。吹き出した汗が体温を奪い始め、夏なのにひどい寒気をおぼえた。そしてトイレに駆け込んで、げえげえ吐いた。
夫は面食らっていた。突然、具合が悪くなりはじめた私を前にうろたえていた。今までこんなことはなかったからだ。
「なにか食べた?」と夫に聞かれた。食あたりを疑っているらしい。
事実を言うべきだろうか。しかし、それを告げたら軽蔑されるにちがいない。喫煙の事実を述べることは簡単だか、そこに至るまでの動機を説明しきれるだけの自信が私にはない。
「朝からすこし具合が悪くて」
それだけ答えることにした。妊娠の可能性が皆無であることは私が一番よくわかっていた。
心配顔の夫に子供をまかせ、ベッドで横になりながらスマホを操作した。検索で知り得た情報によると、まれにニコチンがまわったことにより吐き気をもよおすことがあるらしかった。それにくわえて急激な運動をしたのがきっとよくなかったのだろう。とにかく、これで私は煙草への思いをきっぱりと断ちきった。束の間の自由を味わってこんなに吐くのでは割りにあわない。そう思ったからだった。
後日、バッグの底から「自由への鍵」をひっぱりだして、今度はゴミ袋にしのばせた。ライターは小物入れの引き出しにしまった。そうして燃えるゴミの日に、人生最後の煙草と決別した。